『引き出しの中の宝物』



「もしかして、あなたは――」

 女はそっとペンを握り、紙の向こうの姿も分からない友人に語りかけるように文字を書いた。女がペンに少しだけ力を入れると、応えるようにペンは少しずつ動き出した。


 女とペンが出会ったのはここ最近のこと。女は体が弱く社会人になってからもたびたび不調をきたしてはひとつの仕事を長く続けることができずにいた。その日も会社に退職願を出したばかりでうつむきながら歩いていた。気持ちはどんよりと暗かったが、空は澄みわたるような青空が広がっている。まるで自分だけ取り残されてしまったような、そんな寂しい気持ちになった。
 ―コツンと女の靴に何かが当たった。見てみると錆びたペンが足元に転がっていた。土の色に変色していてプラスチックのケースはひび割れている。誰かが落としてそのまま忘れられてしまったのかもしれない。女はどこかにゴミ箱はないかと探してみた。しかしこの辺りは防犯のためゴミ箱は次々と撤去されていて見当たらなかった。しかたがないので女はかばんの中からビニール袋を取り出すとペンを袋の中へ入れた。
 こうしてペンは女の家へやってきた。

 家に帰ると、女はペンのことなどすっかり忘れ、携帯電話を取り出すと母親に電話をかけ始めた。

「ごめん。せっかく紹介してもらえたのに…。うん」
「うん、今は大丈夫」
「・・・ありがとう」

 かばんの中のペンに気づいたのはその日の夜だった。窓際に置いていたかばんの中から何かが光っている。覗いてみると、それは持ち帰って捨てようとしていたペンだった。月の光を浴びてキラキラと光っているように見えた。

「あれ」

 ひび割れなんてどこにも見当たらない真新しい水色のペンがビニール袋の中に入っていた。女は手にとってペンを見つめると、急にこのペンを使って何か文字を書きたい気持ちになった。ずっと前に購入していたA4サイズのノートを開き、ペンを握った。するとペンが自分の手の中から離れ、どこか遠くへ行く不思議な感覚があった。ペンに導かれるように女の手は動いた。

 [あなたの名前は?]

 ペンはなめらかに文字を書いていく。それは柔らかい文体で女に問いかけた。

「私の名前・・・?」

 瞬間、ペンが自分の手の中に戻ってきたような感覚がした。自然と「次は私の番なんだ」と気づいた女は、今度は自分の意思でペンを動かした。

 [私の名前は栞帆-シホ-です]

 そしてペンはまたどこか遠くへ行ってしまう。

 [はじめまして、栞帆さん。私の名前はランプといいます。
 突然ごめんなさい。私と文通しませんか?
 これは魔法のペンです。思いをどこまでも届けることができます。]

 突然の問いかけに驚きながらも栞帆は幼い頃に友だちと手紙の交換をしたことを思い出して懐かしくなった。ペンの向こうの――ランプという人がどんな人なのかわからないけれど、栞帆はその思いに応えることにした。

 [あまり面白いお話はできませんが、それでもよければ・・・]
 [大丈夫!毎日よかったと思うことをひとつ書いて欲しいです。おもしろかったことやすてきなことを!]

 ランプは軽快に言葉を繋いでいく。しかしその一文を見て栞帆はペンが止まった。今の自分に良いことなんて書けるのだろうか…。
 栞帆の沈黙を察したかのようにランプは

 [良いことじゃなくてもいいです!鳥が飛んでるとかその日の天気のこととか。栞帆さんの思ったことを教えてください。]

 栞帆は「それなら書けるかもしれない」とペンを走らせた。

 [ありがとう。今日はとても良い天気でした。雲ひとつない青空で、まるで広い海を見ているようでした。]

 こうして栞帆とランプの文通が始まった。

 最初は一言だけだったものが、日に日に増えていった。ランプは[おこずかいがもらえた][庭に鳥のエサを置いたら食べにきてくれた][雨が降ったあとに虹がかかってきれいだった]など栞帆は微笑ましい気持ちになった。栞帆は[初めて買ってみた調味料がおいしかった][天気が良かったのでふとんが干せました]など身の回りのことを書いていった。ランプはいつも[どんな味なのか気になります]と一言の感想をくれる。それが栞帆は嬉しかった。ランプの感想を読むたびに、できるだけ良いことを伝えたいと栞帆は思った。辞めるまでの間、まだ職場でやらなければいけないことはたくさんある。そのことを思うと少し憂鬱だけれど、文通のことを思うと心が晴れた。毎日“良いこと”はないかと探すようになった。

 紙の上ですぐに反応が返ってくることが栞帆には不思議だった。ペンにはひとつ決まりがあって

 [このペンについて書いちゃダメです。このペンが何なのか、どういうものなのか、ぎ問に思ってはいけません。ペンはすごくはずかしがりやなので、自分のことを話題に出されるとはずかしくて消えてしまうからです。]
 [ランプさんはよく知っているんですね。]
 [私とこのペンは長いつきあいなんです。]

 不思議に思いつつも、この穏やかな関係を無くしたくないと思った栞帆はペンのことについて何も書かないようにした。

 週明け栞帆は職場へ行き、残りの業務を少しずつ終わらせて引き継ぎの準備をした。気は重いけれど何かひとつでも“良いこと”が見つかるように外へ出たいという気持ちが湧いてきたのは自分でも驚きで、嬉しかった。

「あの…やめるって聞いて…」

 社員の一人・佐々山がためらいながら話しかけてきた。佐々山は栞帆が入社してから様々なことを教えてくれた先輩で、細やかなところにも気を配ってくれる優しい女性だった。

「はい。短い間でしたが、お世話になりました。いろいろとご迷惑をおかけしてすみません」
「迷惑なんて!」
「あと少しになりますが、よろしくお願いします」
「よろしくね」

 母親が紹介してくれた仕事は激しい作業のほとんどない業務で社員も優しい人が多かった。それでもやめる決意をしたのは、自分でも予測できない体の不具合のせいであまり職場に迷惑をかけたくなかったから。諦めと悲しみがごちゃごちゃに混ざっていた。それは幼い頃から何度も経験してきたことだった。
 佐々山はズボンのポケットから小さな紙を取り出して栞帆に渡した。

「あの、これ連絡先。私の。何かあったらお話聞けることもあるかな…って」

 栞帆は心の中で「今日の“良いこと”!」と大歓声を上げながら

「あ、ありがとうございます!」

 と大きな笑みをこぼした。

 帰ってからさっそくランプに報告した。

 [おしごとやめちゃうんですか]
 [しばらく休んで、また自分にできるようなお仕事を探すつもりです。]

 「自分にできること」があるかは分からない。一本の長い道を進むには体力が必要で、いつも途中で諦めてきた。そんな栞帆の沈黙の中、ランプは言葉を紡いだ。

 [きっとおしごとも栞帆さんのことを探していて、見つけてくれると思います。このペンが栞帆さんを見つけたように。]

 ランプの優しい言葉が栞帆の心の中に響いた。まるで栞帆の不安な気持ちがノートの中に書かなくてもランプには伝わっているような不思議な気持ち。このペンについても気になるけれど、それ以上にランプは何者なんだろうと栞帆はペンを握り、思いきって書いてみた。

 [もしかして、ランプさんは魔法使いですか?]

 ペンは素早く文字を書き出した。

 [ちがいます!ざんねんですが、私はまほうが使えません]

 ランプがそのあと教えてくれた話に栞帆はとても驚いた。

 [私のおばあちゃんがまほう使いなんです。私は生まれつきまほうが使えなくて、友だちができなくて
 さびしくて泣いていた私に、おばあちゃんがこのペンを作ってくれたんです。
 「このペンがあれば、いつどこでもお友だちができるよ」って。今こうして文通ができているのは、おばあちゃんのおかげなんです。]

 [優しいおばあさんだったんですね]

 [ありがとうございます!栞帆さんとこうして文通ができてうれしい。
 もっとお話したいって思います。栞帆さんはどうですか?]

 ランプの丸く柔らかい文体の向こうに、優しい笑顔が見えるようで、栞帆は涙をノートの上にこぼしそうになった。そして

 [ありがとう。私ももっとお話したいです。]

 と力強い字で書いた。

 栞帆とランプが文通を始めてから、時間はゆっくりと進んでいった。お互いのことを知ることで、栞帆の心の隙間が埋まっていくようだった。


 そしてある日。

 [ごめんなさい栞帆さん。そろそろ文通ができなくなるかもしれません]

 栞帆はその一文を何度も読み返した。意味を理解しようとしたけれどあまり頭の中に入ってこなかった。

 [どうしてですか?]
 [このペンのインクが残り少ないとわかったから。私がま法を使えたらインクをふやすことだってできたのに。ごめんなさい]

 栞帆は自分のことを責めようとするランプの文を見て胸が苦しくなった。インクの消費を少しでも抑えられるように言葉を選んでペンを握った。

 [ランプさんのおかげで私は毎日が楽しかった。ありがとう]

 できるだけ簡潔に、でも伝えたいことは湧き水のように心の中にあふれてきた。ランプは

 [私も同じ気持ち。ありがとう]

 栞帆はその日の夜、早めに電気を消して布団の中へ入り、考えた。差し込む月の光を見ると、かばんの中で光っていたペンのことを思い出す。いつかインクはなくなる…そんな当たり前のことも忘れて、ずっとこのやりとりが続けばいいと思っていた。布団の中に深く潜り、栞帆はランプにあるひとつのお願いをすることにした。
 次の日

 [お願いがあります。この残りのインクを私にください。]

 突然の身勝手なお願いにランプは困惑しているかもしれない。大切なおばあさんからいただいたペンを欲しいだなんて。紙に浮かぶ文字からはランプの気持ちは読み取れない。それでも、いつかは必ずインクがなくなってしまうのならば、栞帆はこのつながりをなくしたくなかった。ランプが会える距離にいるとは思えなかったから。

 [いいですよ!]

 ランプの返事は今までと同じ明るいものだった。そして

 [私からもおねがい。これからいっぱい良いことを見つけてまた私におしえてね。約束]

 栞帆はランプからの言葉を何度も読んで声に出してつぶやいた。

 [ありがとう!約束する]

 その日から、栞帆とランプのペンを通しての交流はしばらくの間お休みとなった。栞帆はノートとペンをいつでも見られるように引き出しの中へ大切にしまい、ときどき眺めては遠くにいるランプのことを思った。少しだけれど、まだインクは残っている。いつかあの子に伝えるために良いことをたくさん見つけよう、そう決めた。


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